鹿児島県 かごしまけん
九州南端部と薩南諸島からなる県。桜島ほかの火山と指宿温泉(いぶすきおんせん)などの温泉群、世界自然遺産に登録された屋久島やサンゴ礁に縁どられた亜熱帯の島々にめぐまれる。
畜産と野菜栽培の盛んな農業県だが、シリコンアイランド九州の一角にあり、近年、IC(集積回路)など先端技術産業の立地もみられる。県庁所在地は鹿児島市。面積は9187km2。人口は177万5636人(2003年)。

九州本島と、太平洋と東シナ海をわける薩南諸島からなり、本島部分は薩隅山地(さつぐうさんち)を中心に東側に大隅半島、西側に薩摩半島がそれぞれ南にのびて鹿児島湾(錦江湾)をいだく。薩隅山地や熊本県境に東西にのびる国見山地は火山性の山地で、その東側には北から霧島火山群、姶良カルデラとならぶ。
その南縁に噴出した桜島火山群、指宿カルデラと池田湖・鰻池、開聞岳、鬼界(きかい)カルデラと硫黄島、さらに南に南西諸島の内帯をなすトカラ列島の火山島列がつづく(→ カルデラ)。

開聞岳
揖宿郡(いぶすきぐん)頴娃町の瀬平公園からのぞむ開聞岳(924m)。薩摩半島の南東端にあり、「薩摩富士」ともよばれるうつくしい火山である。
本島の西部には、中生層を基盤とする出水山地(いずみさんち)や薩摩半島の南薩山地、東部の大隅半島には主として花崗岩からなる高隈山地(たかくまさんち)、肝属山地などがある。これらの山地の山腹や山麓(さんろく)は、姶良カルデラが噴出した火山灰からなるシラス台地に広くおおわれている。
河川は熊本県南東部に源を発し、宮崎県南西部から大口盆地をへて県北西部を横断し、東シナ海にそそぐ川内川が最大で、下流に川内平野が広がる。大隅半島には肝属川がつくる肝属平野があり、薩摩半島南部には万之瀬川(まのせがわ)が西流、吹上浜沿いに長い海岸平野をつくる。
霧島火山南西麓から鹿児島湾奥にそそぐ天降川(あもりがわ)は急流で、河口付近の国分平野も狭い。
北西部の八代海沿岸には出水平野が広がる。鹿児島湾をふくめ海岸線は複雑だが、薩摩半島西岸の吹上浜や、大隅半島東側に湾入する志布志湾岸には長い砂丘海岸がのびる。薩摩半島西方沖の東シナ海には、甑島列島と無人島の宇治群島、草垣群島がうかぶ。
薩南諸島は、「洋上アルプス」の異名がある屋久島と奄美大島や火山島の硫黄島、トカラ列島の島々は山がちで、徳之島、喜界島、沖永良部島では山地の周りを隆起サンゴ礁からなる海岸段丘や台地がとりかこむ。種子島はおおむね海抜は低く、数段の海岸段丘が発達する

鹿児島市のシンボル桜島
写真手前は鹿児島市の中心街。桜島は現在も活動中の火山で、錦江湾をへだてた鹿児島市には、しばしば降灰がみられる。
鹿児島市の年平均気温は18.3°Cである。最寒月の1月の平均気温は8.3°C、最暖月の8月は28.2°C(1971〜2000年)で、九州西岸型気候と太平洋岸の南海型気候の中間をしめす。夏は日差しのわりには猛暑ではなく、冬は東シナ海をわたってつめたい北西季節風がふき、ときには大雪をふらせることもある。山林は針葉化がすすんでいるが沿海部にはソテツの自生地がある。
奄美大島の名瀬市では年平均気温は鹿児島市より3.2°C高く、とくに1月の平均気温は6.3°Cも高い。薩南諸島のほぼ全域が亜熱帯気候に属し、年間を通じて無霜でガジュマルやアダンなどの亜熱帯植物がしげる。鹿児島市の年降水量は2279mm、名瀬市では同2914mmで、ともに梅雨前線が九州本島上に停滞する6月に最多雨量がある。九州を通過する台風の3分の2は鹿児島県に上陸するといわれ、期間は6〜9月に集中する。
霧島屋久国立公園は霧島山や桜島などの雄大な火山景観、佐多岬をはじめとする海岸美、指宿温泉や霧島温泉郷に代表される温泉保養地と、変化にとんだ自然にめぐまれる。
とくに屋久島には九州最高峰の宮之浦岳などの山岳がそびえ、樹齢1000年以上の屋久杉がしげる中央部は1993年(平成5)に世界遺産条約の自然遺産として登録された。鉄砲伝来の地・種子島には、ロケット打ち上げ施設がある。
指宿温泉は江戸時代から「砂蒸し」が名物で、交通機関が整備されるとともに南九州を代表する大リゾート地となった。1月上旬におこなわれる菜の花マラソンなど、観光行事が数多い。

屋久島の縄文杉
国の特別天然記念物に指定されている縄文杉。根回り43m、樹高30mで、現在発見されているスギの中でもっとも大きい。1966年(昭和41)、島の住民に発見されて注目をあつめた。推定樹齢7200年ともいわれるが、最近では2本のスギの合体説もでており、樹齢も2000〜4000年との見方もある。
奄美諸島の島々の海岸部と山岳地帯の一部は奄美群島国定公園に指定され、サンゴ礁の海や亜熱帯植物群落が観光客を魅了する。
とくに南端の与論島は第2次世界大戦後、若者向きのリゾート地に発展した。3・8・10月の各15日におこなわれる十五夜踊りは本来は旧暦7月15日の伝統行事で、本土系の舞踏劇と本土・琉球系の小唄踊りからなる独特の芸能行事である。徳之島では亜熱帯の風光の中でおこなわれる闘牛が人気で、島内の13闘牛場で12〜4月のサトウキビ栽培の農繁期をのぞき年20回ほど開催される。
県北西端、長島の沿岸部は雲仙天草国立公園に属し、出水市などはツルの渡来地として知られる。大隅半島東方の志布志湾岸は日南海岸国定公園の南端部にあたり、枇榔島(びろうじま)の亜熱帯性植物群落は国の特別天然記念物。ほかに阿久根、甑島(こしきじま)、川内川流域、藺牟田池、吹上浜、坊野間、高隈山、大隅南部、トカラ列島の9県立自然公園があり、それぞれ独特の景観をほこる。
古代
九州南部では古代から火山活動が活発で、姶良カルデラ噴出物のシラス層、桜島火山噴出物のサツマ層、鬼界カルデラによるアカホヤ層が各地に広くあつく堆積(たいせき)し、人類の活動の痕跡をおおう。出水市の上場遺跡(うわばいせき)では火山灰の下の最下層からナイフ形石器や粗製尖頭器(せんとうき)、その上層から竪穴住居跡が発掘され、国分市の上野原遺跡は縄文時代早期の定住集落として知られる。縄文前期には円筒平底の吉田式土器、後期〜晩期には独自の市来式土器などが多い。
弥生時代、稲作と鉄器の使用は早くからはじまったが、青銅器はほとんど発見されていない。種子島南部の広田遺跡からは「山」の漢字がきざまれた中国系の貝符が発掘された。古墳は志布志湾岸の肝属平野に集中、天草下島に近い長島や薩摩半島沿岸の小平地や内陸盆地に点在する。
これらの古墳はこの地方を根拠にした反大和朝廷勢力の熊襲、隼人のものとみられている。
7世紀前半から掖玖人(やくじん)や隼人などが中央政権に朝貢した記録があり、7世紀末には掖久のほか多禰(たね)、奄美、度感(とかん)らがその地方に産する方物を献上している。鹿児島県にあたる地域は古くは日向国(ひゅうがのくに)に属したが、702年(大宝2)薩摩と多禰2国がたてられ、713年(和銅6)日向国から大隅国が分立、平安前期には多禰国は大隅国に併合された。
720年(養老4)には大隅国の隼人が反乱をおこし、歌人の大伴旅人が征隼人大将軍となって鎮圧した。8世紀、それまで朝鮮半島沿岸を経由していた遣唐使船は南島路や南路をとることが多くなり、753年(天平勝宝5)には第12次遣唐使船の帰路、唐の高僧鑑真らが現在の坊津町に漂着している。
平安前期から薩摩・大隅両国には諸国におくれて班田制が施行されたが、徹底する間もなく私的開墾が広がり、島津荘など寄郡(よせごおり)による大荘園が成立した。
中世・近世
鎌倉時代、島津荘では地頭に補任された島津氏が台頭、のちには薩摩、大隅、日向3国の守護に任ぜられた。島津氏は中世を通じ他の在地豪族諸氏とあらそい、一族で内紛をくりかえした。戦国期の義久の代に3国を完全に支配し、さらに大友宗麟、竜造寺隆信ら有力大名をやぶって北上し、九州全土を席巻する勢いをしめした。1543年(天文12)には種子島に漂着したポルトガル船を通じて鉄砲が伝来。また、6年後には薩摩出身の武士だったアンジローがザビエルをともなって鹿児島に上陸、はじめて布教をおこなった。東シナ海を舞台にこのころの薩摩は琉球貿易、対明・対朝鮮交易、南蛮交易が活発におこなわれている。87年(天正15)全国制覇をめざす豊臣秀吉の出兵をうけて島津軍は日向で敗北、降伏した。
島津氏は秀吉に薩摩、大隅2国と日向国の一部の60万石余を安堵(あんど)された。関ヶ原の戦で西軍に属した島津氏は窮地にたたされたが、巧みな外交戦術で徳川方と和解し旧領をたもった。江戸時代の1609年(慶長14)薩摩藩は琉球王国を征服して属領とし、それまで琉球領だった奄美諸島を直轄領とした(→ 琉球征服)。本土では鹿児島城下のほか領内113郷の麓(ふもと)に武士を集住させ、兵農一致の外城制度(とじょうせいど)をとった。江戸後期、重豪(しげひで)の代に藩財政が完全にいきづまったが、重豪は茶坊主の調所広郷を登用して財政改革にとりくませて成功させた。
幕末に藩主となった島津斉彬は、藩政改革をおこない西欧の先進科学技術を積極的に導入した。斉彬のあとを久光がついだが、1862年(文久2)生麦事件をおこし、翌年の薩英戦争ではイギリス艦隊に鹿児島城下を砲撃された。公武合体論から開国論に転換した薩摩藩は、西郷隆盛、大久保利通らが長州藩との提携をはかり(→ 薩長同盟)、戊辰戦争を主力としてたたかって倒幕をはたし、新政権誕生の原動力となった。
上野原遺跡 うえのはらいせき
鹿児島県国分市にある縄文時代の集落遺跡。鹿児島湾をのぞむ標高250mのシラス台地上にある。1981年(昭和56)、国分上野原テクノパーク(工業団地)建設にともなう調査で発見された。91年(平成3)から96年までの調査で、約9500年前に桜島噴火で降下した火山灰の下から、縄文時代早期の集落跡が発掘された。日本最古の定住集落として注目されている。
竪穴住居跡が52軒発見されているが、埋没した状況から、同時に存在していた住居は10軒程度と考えられる。周囲からは集石炉や、燻製用の施設であるトンネル状の煙道つき炉穴、貯蔵穴などの遺構が発掘され、高い定住性がうかがわれる。また台地の中ほどにある水くみ場に通じる道も2本発見され、当時の集落景観を復元するうえでも貴重な遺跡である。
出土遺物には、縄文文化の主要な道具である石鏃、石斧、磨石(すりいし)、凹石(くぼみいし)、石匙(いしさじ)などの石器類があった。また、本州では縄文中期にもっとも盛んになる土偶や耳飾(みみかざり)、縄文後期に出現する壺形土器(つぼがたどき)がすでに出そろうなど、先進的な特徴がみられる。
日本列島で定住生活が一般化するのは縄文時代前期だが、南九州ではほかにも、鹿児島市の掃除山遺跡(そうじやまいせき)や加栗山遺跡(かくりやまいせき)、鹿児島県加世田市の栫ノ原遺跡(かこいのはらいせき)など、縄文草創期から早期の定住生活をしめす集落遺跡がみつかっている。氷河期以降の温暖化にともない、日本列島の他の地域に先駆け、いちはやく南九州で定住生活が開始されたことをものがたる。しかし、これら南九州の集落は、約6500年前におきた鬼界カルデラの噴火によって終焉(しゅうえん)をむかえた。
現在、国の史跡に指定され、遺跡の隣接地に集落が復元、公開されている。出土遺物の一部は国の重要文化財である。
加世田市 かせだし
鹿児島県薩摩半島南西部、万之瀬川(まのせがわ)河口南岸の都市。1954年(昭和29)加世田町が万世町(ばんせいちょう)と合併して市制施行。面積は94.37km2。人口は2万3805人(2003年)。
製造品出荷額の70%近くを製パンを中心とした食品が占め、ほかに焼酎(しょうちゅう)製造、クエン酸製造、人造宝石研磨などがある。農業では米のほか、加世田カボチャ、キンカン、ラッキョウ、ミカンなどを産し、畜産もおこなわれる。海岸地域は漁業が盛んで、チリメンジャコを産する。南薩の中心都市として商業も盛んだが、人口は減少傾向にあり、リゾート地の整備などがすすめられている。
1539年(天文8)、島津氏中興の祖とされる島津忠良(ただよし)の城下町となり、現在も武家屋敷がのこる。忠良をまつる竹田神社では、7月23日に夏祭りがおこなわれ、稚児踊(ちごおどり)や二才踊(にせおどり)が奉納される。北部の吹上砂丘は海水浴場としてもにぎわう。

国分市 こくぶし
鹿児島県中部、鹿児島湾北岸のタバコ栽培で知られる都市。1954年(昭和29)国分町が東襲山村(ひがしそのやまむら)、東国分村、敷根村の3村および清水村の一部と合併し、55年に市制施行した。面積は122.51km2。人口は5万3330人(2003年)。
広大な国分平野は江戸時代からタバコ栽培が盛んで、米作、畜産、野菜の施設園芸もおこなわれる。1972年に鹿児島空港が開港してから先端技術の大企業などが進出し、製造品出荷額のうちICパッケージ、半導体素子などの電気関係が85%以上を占める。さらに国分上野原テクノパーク、岩坂工業団地へも企業が進出し、東九州自動車道が開通。人口も増加している。伝統工芸品の薩摩錫器も知られる。
国内最古の定住集落といわれる縄文時代の上野原遺跡がある。713年(和銅6)大隅国国府がおかれ、その後国分寺が設置された。市名はこれにちなむ。17世紀初めには島津義久の居城があり、島津氏のもとで用水路や干拓などの土木事業がおこなわれた。国分タバコは薩摩藩の主要な財源のひとつで、江戸市場でも取り引きされた。

桜島 さくらじま
鹿児島県の鹿児島湾北部に噴出した火山。かつては島だったが、1914年(大正3)の噴火の際溶岩流が大隅半島との間の海峡をうめ陸続きになった。最高峰(標高1117m)の御(おん)岳(北岳とも)と噴火活動が継続中の南岳の2つの成層火山を中心に、中岳や鍋山など多くの側火山と寄生火山からなる(→ 火山)。

桜島
写真手前は鹿児島市の中心街。現在も活動中の火山で、錦江湾をへだてた鹿児島市には、しばしば降灰がみられる。
志布志町 しぶしちょう
鹿児島県東部、志布志湾にのぞむ曽於(そお)郡の町。東は宮崎県串間市に接する。1913年(大正2)町制施行。面積は141.61km2。人口は1万8801人(2003年)。
海岸沿いの平地に細長く市街地が形成され、背後にはシラス台地が広がる。北部から東部にかけては山地がつづき、大半が森林におおわれる。志布志港は1969年(昭和44)重要港湾に指定され、80年代には臨海工業団地の造成によって、飼料配合工場や倉庫がならび、大隅半島北部の物流の中心に発展した。シラス台地では養豚などの畜産のほか、サツマイモ、ミカン、葉タバコが栽培され、海沿いではチリメンジャコなどの水産加工業もおこなわれている。
水陸交通の要衝で、かつては国鉄(現JR)日南線、志布志線、大隅線の分岐点だったが、志布志線と大隅線は廃止された。大阪、東京、那覇とは大型フェリーでむすばれている。
志布志港は古くからさかえ、江戸時代には薩摩藩の主要貿易港として「志布志千軒」のにぎわいをみせた。町内には貿易商人の屋敷跡や、奈良期に創建された律宗の宝満寺跡、中世の大慈寺などがのこり、南西部の山宮(やまみや)神社には「志布志の大クス」とよばれ、国の天然記念物に指定された樹齢800〜1200年の大クスノキがそびえる。湾岸は日南海岸国定公園に属し、東部海岸につきだしたタグリ岬は白砂青松の景勝地として知られる。また沖合にうかぶ周囲4kmの枇榔(びろう)島には亜熱帯植物が群生し、国の特別天然記念物となっている
古い姶良(あいら)カルデラの外輪山に噴出した成層火山が、火山島に成長したもの。およそ5000年前までは御岳(北岳)が活動し、4000年前ぐらいから南岳の活動が活発化した。8世紀初めから噴火記録があり、人畜に甚大な被害を生じた噴火としては764〜766年(天平宝字8〜天平神護2)、1471〜76年(文明3〜8)、1779〜81年(安永8〜天明元)などがあり、とくに1914年の大噴火では多数の死者をだした。
その後、46年(昭和21)に死者1名をだす噴火があったあと、55年から現在まで噴火活動がつづく。土石流などの2次災害でしばしば犠牲者をだし、鹿児島市周辺では降灰が日常化している。
西岸の桜島港には鹿児島港からのフェリーが10〜30分おきに発着、垂水市方面へのバス乗換地で、また桜島観光の玄関口としてにぎわう。ビジターセンターや気象庁火山観測所、自然恐竜公園のほか、国民宿舎やホテルがたちならび、海岸は1970年に日本最初の海中公園に指定された。
御岳西腹の湯之平展望台は、火山と鹿児島湾の眺めがよく、近くには京都大学火山観測所がある。南岸の古里温泉は、作家の林芙美子の母の郷里で、「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」の歌碑がたつ。近くには昭和溶岩が広がり有村展望所がある。
方形周溝墓 ほうけいしゅうこうぼ
弥生〜古墳時代中期につくられた、方形の低墳丘の周りを溝で区画した墓。宮城県から鹿児島県までほぼ全国的に、5000〜6000例が発見されている。1964年(昭和39)東京都八王子市の宇津木向原遺跡でみつかった遺構を大場磐雄博士が方形周溝墓と命名した。
方形周溝墓の形
1辺4mくらいから30m以上の大きなものもあるが、平均で15m前後。平面の形では、周りすべてに溝がめぐる型、四隅に陸橋部とよばれるブリッジをもつ型、数カ所にブリッジをもつ型など多くの種類がみとめられる。
もっともはやい近畿では弥生前期にみられる。東日本では四隅に陸橋部のある型が弥生中期にあらわれ、しだいに四周すべてに溝がめぐる型に変化していく。溝で区画された内部を方台部とよび、ここの中央に埋葬施設をおく。中国・九州地方の周溝墓では箱式石棺墓をつかい、近畿地方では木棺墓(→ 石棺墓・木棺墓)、中部以東の東日本では土坑墓をつかう事例が多い。
埋葬施設と出土遺物
畿内における弥生時代の方形周溝墓は原則的に1基に集団で埋葬する型で、それ以外の地方ではほとんどが1基に単独埋葬する型で畿内と好対照をしめす。方台部以外の溝内に埋葬施設をもつものもある。
出土品は土器がほとんどで、方台部におかれた壺・甕(かめ)・高坏(たかつき)などが溝の中へおちたようなかたちでみつかることも多い。特殊なものとして、ときどき玉(ガラス・メノウ・硬玉)・鉄剣・鏡・釧(くしろ)・石器・木器などが出土し、まれに底部に穴をあけたりくだいた跡のある壺型土器がみつかることがある。しかし、その意味するところはよくわかっていない。
集落と被埋葬者像
集落との関係では、東日本で弥生時代中・後期の有濠集落・環濠集落とよばれた台地上の集落遺跡といっしょになって、よく発見される(→ 歳勝土・大塚遺跡)。分類すると、環濠内に集落群があって外に墓域をもつタイプ、環濠内に集落と墓域をもつタイプ、環濠の内外両方に墓域をもつタイプなどがある。
被埋葬者は、畿内では弥生時代をとおして、家長層を中心に家族全員をほうむる家族墓の傾向がみられる。東日本では初期に家長層だけを対象とする家長墓で、弥生時代末ごろになって大集落を統治する首長層がほうむられたと考えられている。
古墳との関係
方形周溝墓は発見時、古墳へ直接移行する墓かと期待されたが、その後の調査で同一地域で古墳と併行してつくられていたことがわかり、その可能性はうすくなった。近年、韓国で前2世紀ごろ以降の方形周溝墓がみつかり、日本との関係が注目されている。
前方後円墳 ぜんぽうこうえんふん
古墳の代表的な形態のひとつ。円墳に台形または長方形の墳丘を連接させた形をし、民間では古来、その形から瓢箪山(ひょうたんやま)、瓢塚(ひさごづか)、二子塚(ふたごづか)、茶臼山(ちゃうすやま)、銚子塚(ちょうしづか)などとよばれてきた。
3世紀前半に出現し、6世紀後半まで岩手県から鹿児島県までの日本各地で築造された墳墓で、日本の初期古墳の大部分が、また墳長が190mをこえるようなとくに大規模な古墳のすべてが前方後円墳である。
該当する時期が大和政権の進展と重なっているため、大和政権の支配地域と密接な関係があるとされ、被葬者は大王(→ 天皇)や、その勢力下にあった各地の首長層と考えられている。
最古の前方後円墳は奈良県桜井市のホケノ山古墳とされており、死者をほうむった木棺の放射性炭素(C14)年代測定法(→年代測定法の「炭素14法」)などにより、3世紀前半の築造とされる。
2001年(平成13)には、同市の纏向遺跡にあって前方後円形の墳丘をもつ勝山古墳が、その周濠から発見されたヒノキ材の年輪年代測定(→年代測定法の「年輪年代法」)によって「紀元199年+12年以内」という結果がえられ、3世紀前半、場合によっては3世紀はじめの築造すら考えられるとして注目された。
これらの年代は卑弥呼の時代にあたり、邪馬台国論争のうえからも注目されている。

箸墓古墳空撮
箸墓古墳は3世紀後半に築造された前方後円墳で、定型化した最初期の古墳として古墳時代の幕開けをつげる大王墓とされる。現在は全長276mのほとんどが樹木におおわれているが、築造当初は斜面部分を川原石の葺石(ふきいし)でおおって、巨大かつ荘厳(そうごん)な祭祀(さいし)の場であった。後円部(写真上)が東である。奈良県桜井市。